ラ♪ラ♪ラMAGAZINE《夏号》Vol.14 特集

八王子の夏の風物詩「八王子まつり」は、江戸時代から続く関東屈指の山車まつり。美しい彫刻が施された山車は“動く芸術品”と称されることもあるほど、その造形や歴史ひとつひとつに魅力が詰まっています。今回は、地元の神社に継承される山車の文化の研究者で、八王子まつり専門委員の相原悦夫さんにインタビューしました。

 

—相原さんが社寺建築や山車に興味を持ったきっかけは?

私の生家は、八王子まつりの上地区にある多賀神社の参道沿いにありました。夏の多賀神社の例大祭では幼いころから町内頭の父の祭礼の手伝いをすることが恒例で、神社の祭礼行事も暮らしの一部に組み込まれている感覚がありました。地元である元本郷町会は、私が子どものころにはまだ山車がなかったので、ほかの町会から借りて祭りに参加していましたね。祭りの期間は、実家の真向かいが町会事務所で、山車の置き場になっていました。山車を見るたびに彫刻に手で触ってみたりして「とてもきれいな彫刻だな」と子ども心に魅了されたのを覚えています。また、小学生の頃から歴史に興味がありました。のばら社発行の『児童年艦』を毎日眺めたり、日本史の年表を自発的に作成して校内に貼り出したりしていたほどです。それが今の活動の原点かもしれませんね。

八王子市の山車や、社寺建築の研究を始めたのは社会人になってからです。大学卒業後、三鷹市役所で市史の編纂に携わる傍ら、独自に研究を始めて約50年になります。当時の八王子市史に、地元の住民にとって大切な行事である例大祭について記されてされてないことに気が付き、探求心が湧いたのがきっかけですね。神社や、山車で参加している町会を取材し、多数の協力者のもと『八王子の曳山祭』を昭和50年に出版しました。祭礼の歴史や各町会の沿革などを社会学的な見地からまとめた内容です。また、昭和60年には彫刻山車にスポットを当てた『八王子の曳山彫刻』を執筆しました。山車の文化は知れば知るほど奥深く、現在も興味が尽きません。

山車が“動く芸術品”とも称されるのは、伝統的社寺建築手法による山車建築と彫刻師の個性、題材による目をみはるばかりの彫刻美が凝縮されているからです。歴史と文化を感じられる、魅力的な総合芸術ですね。

 


相原悦夫(あいはらえつお)
昭和15(1940)年、八王子市生まれ。八王子市文化財保護審議会会長。八王子まつり専門委員。著書は、「八王子の曳山祭」「八王子の曳山彫刻」「彫刻師佐藤光重」など多数。八王子まつりでは、J:COMテレビの特番で解説を25年務めた。


—八王子まつりで名物となっている山車の由来と歴史を教えてください

現在の「八王子まつり」で行われる曳山の巡行は、元横山町にある八幡八雲神社の例大祭「下の祭り」と、元本郷町の多賀神社の例大祭「上の祭り」がベースになっています。

八王子の山車祭りの歴史は江戸時代に遡ります。当時の八王子宿は幕府の直轄地(天領)で、甲州街道と日光街道が交差する宿場町として栄えていました。地元の宮大工により建造された山車に人形が載せられた一本柱立ての人形山車が「下の祭り」「上の祭り」を彩りました。山車の数は宿の大きさ、経済の豊かさの証です。当時、江戸に近い八王子宿の入り口にあたる地域を「下(しも)」、経済活動の中心地域で、日光街道以西の地域を「上(かみ)」と呼び、江戸時代以降、下・上の山車祭りが継承されてきました。

残念ながら、いくつかの山車は戦禍で焼失してしまいましたが、江戸時代から続く祭りを支えてきたコミュニティの熱意は失われませんでした。山車がない町会も、戦後は他の町会から山車を借りて曳山を続けていたのです。そして、昭和後期から平成前半にかけて、山車の再建が行われ始めました。現在では、下地区・上地区合わせて19台の山車が、曳山の文化を伝えています。

※曳山(ひきやま)…山車(だし)の別称。根源的に”山”は神座を意味し、築山・置山(=固定神座)に対し、曳山は移動神座と位置付けられ、車で山(神座)を曳く態様を”曳山”という。

 

—八王子まつりが現在のかたちになったのはいつですか?

昭和30年の町村合併後、昭和36年に開催された『第一回八王子市民祭』が、八王子まつりのルーツです。行政の企画により、新旧の住民の心をつなぐコミュニティづくりという位置付けで、“近代と古典の祭典”のテーマのもと、盆踊り、商業祭、ミスコンなどが催されました。

下地区の八幡八雲神社の祭礼「下の祭り」と上地区の多賀神社の祭礼「上の祭り」の山車が初めて登場したのは、八王子市制50周年を記念した昭和41年のことでした。そして、昭和43年に正式に参入し、「八王子まつり」に改称。「古典の部」として山車巡行が行われるようになりました。また、昭和53年には、多賀神社の千貫神輿を始めとする神輿渡御も八王子まつりに取り入れられました。後に山車の再建が相次いだこともあり、平成14年には「伝統的な山車と神輿を中心とした祭り」という八王子まつりの現在のスタイルが確立されたのです。

 

—山車を鑑賞する際の注目ポイントを教えてください

山車が一堂に集まる八王子まつりでは、江戸後期、明治、大正など、都市の近代化による山車の変遷を目にすることできます。例えば、明治中期までは、一本立て『人形山車』が主流でした。「応神天皇」や「素戔鳴尊」など神話による山車人形が山車のシンボルとして彩を添えました。しかし、近代化に伴って道路が整備され、電柱や電線が設置された明治後期から大正には、人形山車に代わって精巧な彫刻を施した『二層鉾台構造』の山車、更には社寺の屋根を模した唐破風が見事な『堂宮形式の山車』が建造されるなど、構造の変遷を辿ってきました。最近では「人形もしっかりと飾って、正式な姿をお披露目しよう」という考えに回帰しています。こうしたの時代ごとの特徴や、再建や修理を経て変化した歴史を知っておくと、見た目からも楽しめるでしょう。

現在、12台の山車と一部の山車人形などは八王子市の指定文化財になっています。年に一度の祭りは、誰でも貴重な芸術品を鑑賞できる機会でもあるのです。

鑑賞の際にはぜひ、ご自身が好きな雰囲気の山車を見つけてください。山車に飾られている人形や平和を象徴する諫鼓鳥、彫刻師の個性が出る彫刻部分など、意識して見比べてみると面白いですよ。

それから、八王子まつりの醍醐味といえば、「ぶっつけ」ですね。私自身も、祭りの囃子方として参加した経験があります。巡行で甲州街道に出ると、すれ違う山車を寄せ合って、相手の囃子に負けじと囃子方の演奏で応戦するんです。山車の勢いでも、囃子でも相手を圧倒するぞと意気込んでいるので迫力があり、見ごたえ十分です。「ぶっつけ」は、こうした囃子方の気迫から生まれた八王子ならではの用語です。

祭りが盛り上がるのは、文化や伝統を守りたいという町会の心意気があるからこそ。住人の理解や愛着などの人の力が伝統や文化を繋いでいくのです。これからも祭りが受け継がれ、長く続いていくことを願っています。