【レポート】「演劇ってなんだろう?」屋根裏ハイツ『すみつくす』を通して考える

2024年1月16日(火)22時~24時に、ぱちぱちのX(旧Twitter)スペースにて、

屋根裏ハイツ×月刊アフタートーク コラボ企画
演劇ってなんだろう?~屋根裏ハイツ『すみつくす』感想・意見交流を通して考える~

が行われました。本記事は、その記録です。

屋根裏ハイツは、2023年12月14日~12月25日にこまばアゴラ劇場にて、第8階演劇公演『すみつくす』を上演しました。

今回のコラボ企画では、屋根裏ハイツさんから主宰の中村さん、俳優の村岡さん、俳優兼スタッフ(『すみつくす』では制作)の渡邉さんをお迎えし、『すみつくす』を観劇したぱちぱちメンバーと製作した屋根裏ハイツの両者による、感想・質問交流会をX(旧Twitter)スペース上にて開催しました。

『すみつくす』より 撮影:本藤太郎

こんにちは。

演劇ネットワークぱちぱちメンバー、大学2年新妻野々香(にいつまののか)です。

今回、私は「つながる演劇公演日誌」メンバーの一員として、『すみつくす』初日公演を観劇してきました。

稽古場や公演本番を見て、興味深かったことや感想、意見などを自分以外の同世代の誰かと共有して繋がるという交流の形は、より個人の観劇体験を豊かなものにしてくれました。

屋根裏ハイツとは、少数のメンバーで話し合い、常に疑いの眼差しを演劇へ向けながら試行と実験を繰り返し、人が生き抜くために必要な『役立つ演劇』を創出することを目的とし活動している劇団で、2013年に仙台を拠点に設立され、2018年からは東京・横浜に拠点を移して活動されています。

今回のスペースでは、ぱちぱちという場が演劇の続け方を模索するための場ということで、そもそも演劇や演劇の面白さとは何だろうかと、続け方を考える上でも自分の演劇のこだわりや演劇観を明確にしていくために、屋根裏ハイツさんの『すみつくす』を題材に観劇の感想を交えながら、自分にとっての演劇や演劇の面白さを再認識するためのヒントを探っていこうと思います。

以下敬称略です。

月刊アフタートーク×屋根裏ハイツ トーク参加のみなさん

月刊アフタートークチーム:こうへい(25歳)/まおすけ(大学3年)/ゆうか(25歳)/のん(大学1年)

スピーカー:中村大地(屋根裏ハイツ)/村岡佳奈(屋根裏ハイツ)/渡邉時生(屋根裏ハイツ)

【月刊アフタートークチーム】こうへい
【月刊アフタートークチーム】まおすけ
【月刊アフタートークチーム】ゆうか
【月刊アフタートークチーム】のん
【屋根裏ハイツ劇団員】左から 渡邉時生、中村大地、村岡佳奈(Photo by 本藤太郎)

『すみつくす』を観劇した月刊アフタートークチームにそれぞれ感想や質問を聞いてみました。
それに対する屋根裏ハイツのみなさんの返答や意見交換を対話形式で綴っていきます。

外部とつながる窓

のん:私はまず、窓の外の景色が印象に残りました。あれは映像なのかな。本物の外の景色にしか見えなくて、どうやってるんだろうって疑問でした。

中村:あれ映像だと思ってた?

のん:え、リアルですか?

中村:リアルです。アゴラ(こまばアゴラ劇場)ってあそこ開くんですよ。僕ら声が小さかったから大丈夫だったらしい(笑)。

のん:じゃあ、外の家の扉が開いたり子供が通ったりも、リアルなんですか?

中村:リアルですね。台本が決まる前から、あそこを開けることだけは決めてました。

一同:ええ~!

中村:アゴラの人に「ちょっと風通し良くしたいんですけど」って言ったら、「開きますよ」って言われて(笑)。

劇場ってすごくブラックボックスで、ぎゅって身体が緊張する空間の中で、駒場東大前ってすごく穏やかな街でとても良い感じだから、その感じが劇場に入ると無くなっちゃうのが嫌だなぁと思っていて、劇場の外の空気と一緒に中側に空気が通るようにしたいなって思っていたんです。

でもそれは比喩でそういう話をしてたら、「開きますよ」って言われて、開けてみたらとても良くて「やったぁ!」って(笑)Amazon配達の回と犬がめっちゃ鳴いた回があって、あれは良かった(笑)。

のん:窓の外の時間があまりにも出来過ぎなくらい良い感じに人が通っていたので、もしや映像なのかなって思ってました。一定の時間が流れてるっていうか、外の景色はただ時間が流れてる感じで、舞台上も過去と未来が均一に時間が流れてるっていう感じがして。

学校の先生によく「皆持ってる時間は一緒なんだ」みたいなことを言われると思うんですけど、そういう感じで同じ分量の時間があって、それが同じ場所でたくさん折り重なってるのが、淡々としてるのに情緒があるように感じられて、何というわけでもないのに何か噛みしめてるって感覚が、すごく良かったです。

中村:めちゃくちゃ嬉しいです(笑)。窓の外の変化は勝手にお客さんが紐づけて観れちゃうから、どんな回でも出来過ぎって感じには大体なると思う。

こうへい外から聞こえてくる電車の音とかも良いですよね。

中村:そう、アゴラって窓が開いてなくても電車の音はずっと聞こえているんです。多分普通の会話劇でも静かな間とかがあると良く音が通るんですけど、これは座る席によって気になる気にならないあると思うけど、それが前に窓があることで電車が前から、目の前の窓の外から電車が通ってるように聞こえる。

でもあれが閉じると、事実そうなんだけど、客席の後ろから通ってるように聞こえてくるから、観劇とか物語のノイズになっちゃうことがあって。

それがあそこが開くことで、音の位置が勝手に向こう側にズレるっていう、そういう効果もあったのは偶然の発見で、後ろで鳴ってるのは気になるけど、前だとあんまり気にならないみたいな。その発見はすごく面白かったです。

抗いようなく自然に入ってきてしまう環境音も舞台装置の一つにしてしまうテクニックは大変面白く感じますし、その物語外の要素を気にしてしまう観客の心理を舞台上のセットの工夫一つで操作できてしまうんだと興味深く感じます。(新妻)

目の前の魅力

(観劇したぱちぱちメンバーからのコメント)炊飯器からの匂い、最初はあの開けた窓から外の料理の匂いが入ってきてたんだと思ってました

村岡:よく言われました。実は本当に炊いてます(笑)。

こうへい:舞台上で炊飯っていいですよね。憧れます(笑)。

まおすけ:自分は料理が出てくるところ、拷問じゃねぇかって思いながら観てました(笑)

グルメ番組とかドラマとかで何か食べてるところを観るときに、あぁ美味しそうだな、食べてるなぁくらいしか思わないと思うんです。

でも舞台で美味しそうなものをたくさん食べてるのを見ると、羨ましいっていうか、いいだろう~って見せつけられてる感じに見えたんですよ(笑)。

こっちは絶対食べられないのにそんなに美味しそうに食べて拷問じゃねぇかみたいに思って。

テレビでは全く思わないのに演劇ではそう思うから、やっぱり目の前で本当に食べているから生じることなんだろうなと思いました。

こうへい:ちなみに飲酒は本当にしてたんですか?

村岡:飲酒は無いです。あれはノンアルコールを飲んでます。

こうへい:サッポロビールも?

村岡:オールフリーにサッポロのラベルを貼り付けて(笑)。

こうへい:ああ~なるほど。

まおすけ:頭いい。

中村:そうすれば舞台上でも酒飲めるから(笑)。

意外とバレないんだね。

近くで見るとバレるけど、あれぐらいの小劇場でもバレないのか。

こうへい:物語の早い段階から堂々と飲酒してて、いいなぁって思ってました(笑)。

客席まで充満する香りで食欲を誘う料理や、目の前でプシュッと音を立て勢いよく飲まれる缶ビールなど物語の中のものが、ただ座っているだけの我々の視覚だけでなく嗅覚や聴覚も刺激し、より客席と舞台の連続性を感じさせます。(新妻)

『すみつくす』より 撮影:本藤太郎

こまばアゴラ劇場閉館との関連性

まおすけ:これは聞いていいのかわからないですけど、こまばアゴラ劇場の閉館を知った上であの話にしたってことは無いんですか?

中村:無いです。間に合わないよ、そんな台本の作り方してたら(笑)。

まおすけ:話がタイムリーじゃないですか。だから…。

中村:すげぇタイムリーだよね。

まおすけ:じゃあ、公式のお知らせで初めて知ったって感じですか。それよりも前に一応知ってはいたけどって感じですか?

中村:公式のお知らせが確か12/1だったので、基本的にはそうだよね。

でも関係者からなんとなく聞いたりはしてたけど。とはいえ全然。

台本を書いてたのは8月とかなので。

渡邉:第0稿に関しては1月にできてますからね。

中村:1月は嘘だよ~。

渡邉:1月に構想はしてたよ。シェアハウスを舞台に~って。

中村:そっかシェアハウスを舞台にっては1月からしてたか。

渡邉:うん。

まおすけ:おお~そんなに早くから。タイムリーに消えゆくアゴラ劇場に、その無くなりつつあるシェアハウスっていうのが、たまたまとは言え、すごくマッチしていて、あの劇場じゃないとできない、あの何とも言えない共感が図らずも生まれていたっていうのは、まず最初に感じたことでした。

奇妙な芝居?

まおすけ:アゴラ劇場に行くこと自体が久しぶりだったんですけど、演技の仕方が不思議だなと感じました。

人が喋るときって面白い時に声が高くなったり声量が出たり、そういう声の波があると思うんです。その波が小さめで、一定の声量以上は出さないしそれ以下にもならないって感じが続いていくのが、安定しているとも言えるし、そこでその声量なんだって意外に思う瞬間もあって、そのぞわぞわ感が印象に残ってます。

中村奇妙だって(つながる演劇公演日誌に)書いてますよね。

まおすけ:そうです、奇妙って感想だったんですけど

屋根裏ハイツのホームページで戯曲が一部読めて、そこで語尾に読点がついてるんですけど、これってどういう点なんですか?

自分の解釈としては、喋ってるときにキャッチボールみたいにポンポンなされる会話じゃなくて、「なんとかだよね/置く」、「そうだよね/拾う」みたいな会話に聞こえたんですが…。

中村:なるほど。僕の台本は一番最後に読点があるんですけど、これは会話には句点が無いっていう思想のもと台本を書いてるんです。

まる(句点)をつけることが人間の会話上では起き得ないって思想のもと点を置いてますが、特に稽古場で、こう間を開けてほしいとかの指示はしないですね。特に語尾についての指示は。でもあんまり被せることを良しとはしないかも

被せないでくださいとは言うかもしれないです。被せる体で書いてないから被せない。僕どの台本でも、人の台本であろうと被せないかな。絶対被せないと成り立たないやつ以外は。

セリフが聞こえたほうが良いって理屈ですね。そのリズムで書かれてるからっていう感じ。

まおすけ:なるほど。それが中村さんなりに会話劇を成り立たせるための技みたいなものなんですか?

中村:会話劇に限らず、セリフって聞こえたほうが良いじゃんみたいなことかな。

これはおそらく奇妙っていうのと繋がると思うんですけど、リアルな会話劇を書こうとは思ってないです。

割と波の無い、起伏に欠けているとよく言われるんですけど、僕的には結構盛り上がりはあるし、その会話でドラマを入れたいっては思ってないかな

会話…だから「標本」っていう表現が適切っていうか、そういう感想もあるよなとは思います

村岡:日常だったらもっと声量上がるとか音程低くなるみたいな部分は、日常会話でも演技をしてるんだと思うんです、人と話すときに。

具体的には、お母さんが電話だとトーンが高くなるとか、怒ってるけど怒ってない話し方で伝えるとか。屋根裏ハイツはそういう日常会話をしたいわけではないって私は思っていて

その日常会話だったらそういう日常の演技みたいなものをすると思うけど、その日常の演技も外した会話を舞台上でしたい

そういうのが屋根裏ハイツの思想かなって私は思ってるかな。演劇をやっていると、セリフの行間を読めってよく言われるじゃないですか。

このセリフを言ってるけど、でもこういうことを思ってるみたいな。

その読解みたいな想像の部分をあまりに自分が乗せ過ぎちゃうと、セリフよりもその抱えているもののほうが強く出て来て伝わってしまうっていうのが、じゃあなんでこの言葉を言っているの? って思ってしまって。

言葉は言葉だし、抱えているものについてはお客さんが想像して勝手に繋げてくれればいいって思っていて、その塩梅というか、ぎりぎりそうとも聞こえるみたいなところを探っていくと、こういう細かい変化にしかならないかなって思います。

だからそのセリフは聞こえたほうが良いじゃんってのは、セリフがその言葉、その意味として聞こえたほうが良いじゃんってことだと思ってます

中村:例えば「好きです」って台詞に怒りの感情を乗せるってときに、声が大きくなればなるほど、怒りの要素が勝って「好きです」って言葉そのものの意味が消えちゃう気がして。

怒ってるかどうかは観客が決めるし、観てればわかるよって思う。だからそこを演技で説明されるような芝居が僕は苦手なんですよ。

客席で観ていて、こっちの想像力を舐めないでくれって思っちゃう。そういうとこからこういう方法論へ行ってるところはあるかも。

まおすけ:なるほど。日常でも演技をしているって話が自分では結構腑に落ちました。

だから本当にシンプルに会話のセリフをいかにシンプルに見せるかって方法を探ってるんだなって聞いてて思いました。

感情みたいな雑念が入って来ちゃうと、セリフの本来の意味みたいなのが消えちゃうってことなのかなと思って、だからああいう喋り方になってるんだなぁって合点がいきました。

中村:でも声の大きさとか会話の質感とか、あれがベストかっていうと、わからない。

渡邉:これだと大きい劇場とか行けないからね。大きい声を出さなきゃいけなくなったときに今の大事にしているものがどうなるの? っていう疑問もありますよね。

中村:そうそう。個性が失われていってるっていうか、これは僕の妄想ですけど、もっと声小さかったんじゃないかなって思うんです、めっちゃ前の青年団は。わかんないですけど。僕も少し聞きますよ、それ。

吉祥寺シアターとかで、やってられないよそんな声の小ささで、とか。それで必要にせまられてどんどん演劇に近づいて行くっていうか、いわゆる新劇的なパフォーマンスに近づいていったり、チェルフィッチュでいうとマイクを手にしてるのかなって。

多分(ハコが)小さいからこそできることっていうのが沢山あって、それを捨てなきゃいけないって時があるのかもね。

こうへい:そこに絡めて少し気になったのが、平田オリザというか青年団との距離感ってどう感じてるのかなって思いました

中村:僕はまじで重ねられたくはないし、全然違くないですかって思ってます。

でも形としては会話劇なので、佐々木敦さんは現代口語の最前線みたいなことをTwitterで言っていた気がしますが、その時は「ああそうですか」ってはずみで言ってしまったんですけど(笑)、本意としては全然違うと思ってます。

はたから見るとどうなのかわからないですし、あと今回のはアゴラでやったのでそこは重ねられたのかもしれないです。でも初めて言われました。だから全然距離はあると思います。

『すみつくす』より 撮影:本藤太郎

演出のオーダー

ゆうか:私は稽古場に2回行かせていただいて、演出家の演技のオーダーがあまり無いなって思いました。

こういう風に演技してくれっていうんじゃなくて、ここはこうだからって段取りのところだけ調整しているところしか見てないんですよ。

だから勝手に俳優がもうできちゃってて、そういうレベルに達してるから、そんなに大地さんがオーダーすることがなかったのかなって思ったんですけど。

村岡そもそも中村さんの演出で俳優に何かオーダーするっていうのは無いんです

今回の『すみつくす』は、10月に兵庫の城崎で2週間稽古をして、発表も一回した後に東京稽古を11月末からしてたんですけど、城崎の頃から舞台セットがガラッと変わって、東京稽古がもう一度空間を立ち上げるってところから始まっていたので、伊藤さん(=ゆうか)がいらしてた日とかは、より段取り稽古の面が強かったんじゃないかな。

セリフ自体は10月の城崎で行ったものをもう一回やってるから、セリフのやり取りの成り立ってない箇所を詰める前に段取りからまずやってたからかもしれないです。

でもそもそも演技にあまりオーダーする人ではないですね。

ゆうか:その点は想像してた通りです。そういうオーダーがたくさんあると、また全然違う質感のものになっていた気がするから、本番もそうですけど稽古場からそれは感じました。

村岡:オーダーとかがしっかりしてると、きっと安定とかはするんでしょうね。

中村:舞台中はずっと不安定なままでしたね。

ゆうか:それに絡めて言うと、さっき発言していた中に、“自然な”っていうか、普段の会話以上に演技をしないって言われてましたけど、私がつながる日誌で本番の感想を書かせていただいた時に、「スーパーナチュラル」って言葉を使ったんですね。

スーパーナチュラルってどういうことかっていうと、本物「っぽい」っていうか、めっちゃリアルを超えてるナチュラルさっていうことだと思っていて。

だから本物に近づくというよりかは、本物を超えるものを目指しているのではないかと思って。さっきのお話で、なるほどそれが美学なのかと思いました。

村岡:美学(笑)。

中村:なんか恥ずかしい(笑)。とはいえ、日常でもありえるくらいのテンションの部分も結構あるので、塩梅見ながらやってるかな。

村岡:しかも実際はめっちゃ演技してる感覚というか。演技しない演技をしてるというか

ゆうか:言い方とか声を制御するみたいな? 意図的に調整しないとできないことじゃないですか。

村岡:うん、そうですね。

中村:多分見てても疲れるし、演じてても疲れる。言い方とかは決めてないけど、いろんなことがすごい決まってるよね。通らなきゃいけない道みたいなのがいっぱいある

村岡:今回は特に。人の動きだけじゃなく物の動きとかもね。

中村:そういう動きが決まってるので、ある種の丁寧さ、正確さとはまた違う、精密さとかは求められてたかなとは思います。

『すみつくす』より 撮影:本藤太郎

演技する?しない?

こうへい“演技しない演技をする”っていうのはどういうことなんですか

私がつながる日誌で書いたような、ただただ演技しない緊張感のない状態でいるとシーンとして成立しないからっていうことなんですか? お客さんに演技していると思わせない動作ってことなんですか?

中村:演技してると見せてはいるんじゃないかな。

村岡:お客さんから見られてるって緊張ももちろんあるし、そこは嘘は付きたくないけど、でも物語上そこはシェアハウスの住人と一緒にいる場であって。

寺原さん(=こうへい)のつながる日誌を拝見して、「これは演劇でありツクリゴトである。が、いかに自然にシェアハウス(に集う人々)が「〈最期〉のパーティー」という(思い入れある)時間を過ごすか、という駆け引き」っていうのがすごく同意できて

絶対に劇場っていうお客さんに見られているって空間であることは抗いようがないし、その環境にも嘘をつかず、かつ物語の破綻しない程度に物語にも乗っかるっていう、そのときに物語の中で自然であるとされる行動や振る舞いをしているって感じかなぁ?

中村:一個一個見えるものは意識しながらやってる気がします。ティッシュ1枚取るにしても。

そこに客の視点を与えようっていう風に演技しようとはしてないけど、めちゃめちゃ見られるものとして自覚しながら動いてるとは思います。

渡邉:それか、嘘をつかないようにしてるってことかな? お客さんから見て、「あ、嘘ついてる」って思われることをしないように常に振る舞ってるかなぁ

中村そのシチュエーションの中であり得るようなことは全部起こしても良いってことになると思う。

例えば、何か客席から音がしたら見てもいいってことになっていて。見てもいいけど、話を進行する弊害にならないような音は無視したほうがいいとか。

その辺のレベルはケースバイケースで、ものすごい音が客席からして俳優全員がそっち向いたらそれは違うじゃん。

例えば(『すみつくす』では)12年前のシーンで炊飯器の湯気は見ていいんですかって話。

もちろん見てもいいんだけど、おじいちゃんが入院してたことを話しているときに全員が湯気を見てたら、それはおじいちゃんの話聞きなよって思うし、でもその近さだったら絶対湯気が気になって当たり前じゃんってものを、でも誰がどれ担当って演出で事前に決めない暴挙(笑)。決めないとどうしても成立しないときは決めるけど。

だってその時に座ってる席によって変わるし、湯気に関してはタイミングとか制御できないので。

演技の仕方が、それを決めることで同じ質を担保できるって良さが生まれるかもしれないし、僕らのやり方で良いのかわからない部分はあるけど、今はそういうことを選んでやってる。

こうへいもし決めちゃったときに、見るって演技が決まった人は自分の生理感覚には合わないことをやれって指示されちゃってるかもしれないですしね。

その時の役者としての演技の仕方的には、ふとしたときにチラっと見るものとは全く違ってきちゃいますよね。

物語という芝居の場はあっても、客席/観客と舞台/俳優の空間の隔たりを設けて完全に異なる次元のものとはしていないことと思いますが、その場合、俳優同士の連携やその場の雰囲気・流れを読む精度がより一層求められるのかなと思います。その度合いや時と場合の塩梅の見極めが試されるところなのでしょう。(新妻)

『すみつくす』より 撮影:本藤太郎

想像力を舐めるな!

まおすけ観客を舐めないでほしいって話をもっと聞きたいです

それって創作の根源にあるような気持ちだと思うんですけど、どういう経験からその舐めないで精神は生まれたんですか?

中村:僕は大学の演劇部から演劇を始めたんですけど、自分の気持ちとかをすごく説明する演技とか、小さい劇場なのに大きい声で感情を説明したりっていうのが、こんな狭い所なのになんで全部言葉で説明するんだろうって疑問で。

あと、舞台上で起こることより俺の頭の中のほうが面白いって思うことが結構あったんです。

話の筋を想像して、こうなるだろうなって考えてるときのほうが楽しいみたいな。それが始まりかな。

まおすけ:頭の中のイメージほうが豊かで、舞台の上のほうが萎んでしまったってことを自分はやりたくないって思いがあって、屋根裏ハイツではお客さんに情報を与えすぎないでお客さんで膨らませてほしいっていうのがあるってことですか?

中村:そうですね。もしかしたらとびきり面白いストーリーとか予想だにしない展開を書くってことが道としてあるのかもしれないけど、それがあまり僕は得意じゃないってこともあるかもしれない。

あと僕が好きな体験として、作品を観ながら自分の記憶とか別のことを考えてる時間がすごく好きで、その余地・余白があるほうが自分の観劇体験としては豊かだなって思うことが多くて。だからそういう作品を選びたいし、そういう風に作品を作りたいなって思ってますね。

でもそれだと、何も起きてないじゃんって言う人も一定数いるのもよく知ってます。

まおすけ:なるほどな~。難しいですよね。情報を浴びるのが演劇みたいなのがイメージとしてあると思うんですけど、むしろ美術館とかに行って見るみたいなほうが鑑賞法としては近いのかな。

中村積極的な読書体験、小説を読んでるのに近いって言われたことはあるかな。

でも自分たちでやってることは演劇の根源的なことをやってるなぁとは思う。

原理主義っていうとあれだけど、エンターテインメント的な情報を浴びせるんじゃなくて、観客側から掴みに行ってもらう必要はあるけど、何か掴んでもらえたら演劇とかパフォーマンスでしかできないことをやってるなぁって感じます。

ゆうか:小説を読んでるみたいだって形容されることが多いと話されてましたけど、私はお芝居を観るときに事前に当日パンフレットを読まないんですよ。

名前、年齢、○○をしているとかの情報や、演出や主宰の方が挨拶でこういう風に観てほしいとかこういう思いで書きましたとか書いてあるのを一切排除して観て、そこで行われていることがすべてだと受け止めて、そのあとで当パンを読んで、そういうことだったんだって、こっちの想像との異同を楽しんでるところが私にはあって

その観る側の想像力だけを頼りに、それ以外の情報はあえて無しでって鑑賞方法が、それでもいいんだなって思いました。

中村:そうですね。パンフは作る側としては、そこまでは情報を提供しますっていう意味ではあります。

デザイン的には読んでもらう想定で作ってはいるし、そこまで伝えないとおそらく意味が分からないだろうから、初めにこれだけ読んでもらえれば安心して観れるだろうって想定のもと作ってるけど、別に読む読まないは自由って感じかな

ゆうか:そうですよね、観進めるうちにここはこうなんじゃないかって説明が無くても分かるし、わかんなくても良いみたいな感じですよね。

中村:そうですね、過剰には説明しない。それで言うと、まおすけさんが観た日は初日で字幕があったじゃないですか。

まおすけ:はい。

中村初日だけ少し違うんです。○○年って年が出てからシーンが始まったと思うんだけど、それが説明し過ぎだと思って2日目以降から切りました。

私もまおすけさんと同じ、初日の日本語字幕付きの回を観劇しましたが、年の記載が無くなったのは初耳でした。なんとなく、ト書きやセリフを含めた台本の内容がそのまま投影されているイメージだったので、その字幕すらも作品の表現の1つとして、中村さんの思想のもと考えられ工夫され構成されていたというのが驚きでした。字幕が補助機能としてだけではなく、舞台装置の作品の表現の1つとして捉えるという視点が私には無かったのでとても参考になります。(新妻)

屋根裏ハイツが目指しているもの

こうへい:屋根裏ハイツさんは何を大事に作っているのかってところが今回の企画の根本の部分でもあるんですけど、情報量を浴びせられるんじゃなくて余白がある舞台の形、そこで何か観客の中で生まれるものを作って、それをお客さんと共有するというようなものを作りたいんだろうなと思いながら聞いていました。

そうした客席・舞台というきっぱり分かれるようなところじゃない、そうした緩やかな共有のされ方に価値を見出してやられてるんだなぁと思って、それはとても面白く感じました。

中村イメージを見せる演劇ではなくて、観客とイメージを共に見る演劇を作りたいなって

舞台上にいる人も誰かの話のイメージを見ている感じで、(『すみつくす』では)おじいちゃんの話が顕著なんですけど、おじいちゃんがおばあちゃんを入院先に送り届ける場面で、その話を聞いている人が登場人物の中にもいて、つまり舞台上の人もお客さんと一緒にイメージを見てる。

普通の舞台は多分舞台上からお客さんに見せるけど、イメージを共に見るみたいなのは、なんとなく自分たちは意識してやってるかなって思う。

だらだら喋ってる時々に挟まれる思い出話なんかを、舞台上の人も一緒に聞いていて、その話を舞台上の人はお客さんと同じように聞くだけでほぼ否定しない。ただガイドとして質問することはあるけれど。

こういう形が標本っぽいというか、変な会話にはなるけど。良い観客が舞台上にいるって感じを考えながら作ってはいると思います。

『すみつくす』より 撮影:本藤太郎

終わりに

今回のスペースで、たくさんの質問に答え、『すみつくす』の裏話だけでなく、劇団として大事にされている思想など踏み込んだ部分まで丁寧にお答えいただき、参加してくださった中村さん、村岡さん、渡邉さんには心から感謝いたします。

これまで2時間にわたって、『すみつくす』観劇後の月刊アフタートークチームの感想をもとに、屋根裏ハイツのみなさんとお話して来て、観劇しただけではわからなかった点や、屋根裏ハイツが演劇において大事にされていることや作品作りの際の思想など、多くの情報を言葉で共有することができ、非常に収穫が多く、有難い時間でした。

屋根裏ハイツの考え方に触れてみて、改めて自分の演劇観や観劇観を精査することができ、今後の演劇人生についてもっと思考を深めるきっかけになったと思います。

屋根裏ハイツは現在、ポッドキャストにて「屋根裏ラジオ」を隔週で配信しています。
劇団員たちが、演劇2割:それ以外8割くらいの気持ちで、いろいろなテーマについて自由に喋るポッドキャストです。ぜひご視聴ください。

今後もぱちぱちフレンズとして屋根裏ハイツの活動を追うと共に、演劇の続け方・関わり方などについて模索していければと思います。

《このレポートをまとめた人》
新妻野々香
早稲田大学2年。制作者を目指して、技術を身に着けるために学校外での現場経験を積む。

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