(齊藤)人はなぜ劇場に行くのか?

おとといは兎を見たわ。

昨日は鹿。

今日はあなた。

ロバート・F・ヤングの『たんぽぽ娘』、好きなんですよー。

こんばんは。今週は久々の連休で、インプットを沢山やっていましたまゆたそです。

おとといは映画、昨日は舞台、今日も舞台。

椅子に座っているだけでこんな豊かな体験をさせて貰えるんですから、素晴らしいですよね。エンターテイメント。

元々「観劇狂い」を自称していた私なので、お金と時間的余裕があるのならば週に1度は観劇したい!という気持ちではあるのですが、連日飛び込んでくる公演中止のニュースに、「せっかく取っても中止になるなら…」とチケットを買うのも控えてしまう自分がいて、今回の演目もすごくギリギリになって観る決心をしました。

『ザ・ウェルキン』と『春のめざめ』

期せずしてどちらの作品も「性」「人権」を扱った作品です。

女性の尊厳や保守的な大人たちの抑圧。あらすじからも最後が悲劇であることは分かりました。観終わった際に、きっと笑っていることはないだろうと思いました。嫌悪か悲しみかどちらかを感じているだろうと思いました。

それでも私は劇場に足を運びました。なぜでしょうか。

きっと私は演劇(に限らずエンターテイメント全般に言えるかもしれませんが)を観ることで、パワーを貰いたいのはもちろんですが、「こんな作品を観て私はこんな風に感じた!あなたはこの題材についてどう思う?」と誰かと話がしたいのかもしれません。考えたいのかもしれません。

今回の作品でいうならば、「現代の日本でも“女性は子どもを産む機械”だとする考え方やミソジニー的な考え方って無くならないけど、なんで?」「性教育もろくにせず、従順な子どもであれ、純粋であれと子どもに押し付けた結果悲劇が起こったけど、こうならない為にはどうすればいい?」というような。

「演劇は世の中を映す鏡」であるならば、舞台は虚構ではあるけれど、「こうだったかもしれない」「こうなるかもしれない」と色々なアプローチで現実を表してくれているわけです。舞台上は嘘だけど、真実でもあるのです。(なんだか謎かけみたいな文章になってきました)

そこで出た問題提起やパワーを受け取った私たち観客が、現実に立ち向かっていく。そうしてより良い世の中になっていければいい。そうであってくれと、ふと思ったりします。

……とまあ、小難しいことをずらずら書いてしまいましたけど、私だって楽しむために劇場に行きますからね。悲しいも辛いも、そういう感情も含めて「楽しい」非日常の体験ですから。

『ザ・ウェルキン』や『春のめざめ』がストレートに問題提起をするタイプの作品だとすると、いうなれば『むかしむかし、あるお家に』はパワーを受け取ったり、ちょっと休憩するタイプの作品なのですよ。

『むかしむかし〜』はお客さん参加型の作品ですので、そういう非日常の楽しさは保証いたします。なんならお客さんのパワーで作品の内容も変わっていくかもしれません。

さらに「子どもと一緒に観る演劇作品」でもあるわけなので、小さい子たちはキャストが見てる(一緒に遊ぶ)から、大人の人たちはちょっと休憩しててね、という作品でもあります。

制作として、どうやったら劇場にお客さんが来てくれるんだろうと色々考えるのですが、こういう文章を通して、ちょっとでも作品のことを伝えられたらなーと思います。

なんだか全然まとまってないですが、今日はここまで。