(齊藤)自分が望んだ物語

こんばんは。3ステージ目が終わったまゆたそです。

ここ最近の私は、観劇したり演技したりと相変わらず演劇三昧です。

本当にありがたいことです。ありがとうございます。(多方面に向かって礼)

さて、先週は「事実を物語化すること」について書きましたが、今日は物語そのものについて最近感じたことを書いていこうと思います。

突然ですが私、没入するのが大好きなんですよ。言い換えれば、「日常が非日常に変わる」のが好きなんですね。だから没入型演劇(イマーシブシアター)とか謎解きゲームとか、定期的にやっています。この間も「ムケイチョウコク」という団体のイマーシブシアター『反転するエンドロール』の稽古場にぱちぱちメンバーのもりもりとまおすけとお邪魔してきたばかりです。

イマーシブシアターは、お客さん側が自由に視点を選ぶことができるのが魅力だと思っています。劇場で椅子に座って観るタイプの作品だとそうはいきません。一般的な戯曲は、そのシーンの中心となる人が決まっているからです。山田和也先生の言葉を借りるなら、「このシーンは誰のシーンなのか。戯曲の構造はどうなっているか」というやつです。演出実習で散々言われたのを思い出します……。

演出家や役者は戯曲の構造からそれを読み取って、作品を、場面を作っていきます。

だからもしお客さんが「この人はどんな人なんだろう?気になる!」と思って追いかけても、その人がその物語において比較的重要人物で無い限りスポットライトは当たりませんし、セリフがない場合だって普通にあります。

しかしイマーシブシアターであれば、「この人はどんな人なんだろう?気になる!」と思ったその人を軸に物語を追うことができるのです。

しかし時間が経つにつれて、あることに気が付きます。それは、ドラマチックなことはそんなに起こらないということです。(先週も同じようなことを書きましたね)

登場人物は時に誰かと会話し、時に何かを発見したりします。

でもそれは、一見すればただの会話であり、出来事の1つでしかありません。

その会話がどんなに物語に影響する重要なものだったとしても、私たちはそれを知ることができません。結末を知り、物語の大枠を知って初めて、ただの会話だったものが「ドラマチックなこと」であったと分かるのです。

イマーシブシアターはお客さん側が自由に視点を選ぶことができるのが魅力です。出来事を自分自身の手で選び取り、自分だけの物語を作ることが出来ます。でもそれはとても骨の折れる大変な作業でもあります。場合によっては、起承転結が無い出来事の羅列のような物語ができ上がることだってあります。

だから一般的な演劇作品は、照明や音響、役者のセリフの強弱によって「ここがキーポイントですよ!」と分かりやすく観客の視線や意識を誘導します。「1つの物語」を客席みんなに理解してもらうための道筋を作るのです。

ただの出来事の羅列にならないように、主人公がいて、周りの人たちがいます。主人公は影響を受ける「受け手(Taker)」であり、周りは主人公に影響を与える「与え手(Giver)」…というのは、松崎悠希さんのTwitterで知った概念ですが、そういうふうに一般的な物語は作られています。

ただイマーシブシアターを体験するたびに、人は時に与え、時に受け取る存在だということに気づかされます。全てが終わって初めて、何気ない行動に意味が生まれる。何気ないひと言が、誰かに重要な決断をさせる引き金だったと知る。けれど、やっている最中はそんなことは分からない。私は本筋から大きく外れた物語を選び取ってしまうことが多いので、自分が望んだ物語を手にすることができず、モヤモヤすることが度々あります。物語というのは本当に誰かの作った枠組みのことを指すのかなぁと。

……この、「自分が望んだ物語」という単語も面白いですね。つまりどういうことでしょうか。起承転結がきちんとある物語ということでしょうか?カタルシスが得られたのかということでしょうか?

今回、私がキャストとして参加している演劇作品『木星のワイングラス』も、なんだかイマーシブシアターみたいだなと思うのですよ。

登場人物7人。誰の物語として観るかで大きく印象が変わる。ただ、ひとりひとりをそれぞれ追ってみても、どこかに必ず穴が空くんです。解明されない謎が残るんです。そんな戯曲だなと私は思っています。

なんだかちっとも終わる気配がありませんので、今夜はここら辺で強制的に終わらせます。

千秋楽、頑張ります。