(齊藤)事実を物語にするということ。

こんばんは。夜更かしフルスロットルのまゆたそです。

なんだか久しぶりの更新な気がします。

最近の私はほぼ毎日『木星のワイングラス』という作品の稽古をしております。今回はキャストとしてガッツリ演技しますよー!

実はこの作品、「ドラマセラピー」の研究の一環で上演される舞台でして、通常の舞台とは少し趣旨が異なっています。

『とある楽曲とリンクした経験や実際に起こったエピソードを舞台演劇化することで、それを実際に本人が客席で観ることで、そのエピソードの捉え方はどのように変容するのか明らかにする』

というのが本作品の上演目的です。実際に起こったエピソードを演劇化するだなんて、しかもそれを本人が客席から観るだなんて、何だか面白そうですよね。

エピソードの提供者の方から実際に語られた物語に登場する役を演じる、ということは私の役にもモデルがいるわけです。

自分をモデルにした役を他者が演じる、それを観るのはどんな気分なのでしょう。

「自分は他人からこんな風に見えているのか」と自らを俯瞰することができるでしょうか。

事実を物語化するということは、物事が分かりやすくなる反面、問題点がすり替わってしまったり、事実が誇張されて誤って伝わってしまうことがあります。

今日私は、沖縄戦を描いた映画『島守の塔』、そして人間魚雷や原爆を描いた舞台作品『生き残った子孫たちへ 戦争六篇』を観てきました。

両者とも戦争の悲惨さを描きながら、それでも生きていくというお話でした。

お国の為に死ぬという女生徒に対して「生きろ」という沖縄県知事。万歳万歳と日本の勝利を信じて死んでいった若者に「日本は戦争に負けましたよ」と残酷な事実を伝える整備兵。

70年以上前の、確かにこの国で起こっていた太平洋戦争を、様々な形で物語化してきた日本。そこにあるのはきっと事実だけではない。その時その時で付け足されていったものは絶対にあるでしょう。10年前の東日本大震災にしたってそうです。そこにあったであろう感情や記憶は、時間とともに消えていく。でも何でもない日常は人の記憶に残らないから、悲しみや怒りなどの激しい感情ばかりが後世に伝承され残されていく。

それは確かに事実の一部分ではあるだろうけど、それだけが事実じゃない。

演じていると、どうしても激しい感情を気にしてしまいがちだけれど、私たちの生活の大部分は、何でもない瞬間だったり、無言の時間の積み重ねです。それを忘れちゃいけないなと、今日ふと思ったのです。モデルがいらっしゃるなら、なおさらその部分を大事にしなければいけないと。

演劇は本当に色々な形があるし、どんなものにも応用することが出来るんですよね。

……何だか話がまとまっていないですし、ぱちぱちが全然関係ないですね……すいません。

(「物語」ということで、アイキャッチ画像だけでもむかしむかしの写真を使ってみる)

本番まであと1週間。体調に気を付けつつ頑張ります。